江戸期の周防大島、安下庄地区の絵図です。今とあまり変わっていませんが、現在の中心街の平地は元浜辺で長尾八幡から旧役場までは、沖家室の友澤四郎左衛門が開作(埋立開拓)した場所で友澤領となります。
他に龍ケ崎手前も友澤領となりますので、安下庄の殿様は友澤様となります。地元(地下)では給領主を「殿様」と呼び、萩の毛利の殿様は「大殿様」と言い分けました。
同じく萩藩政を「公儀」と呼び、徳川幕府を「大公儀」とし通達札所は萩藩からのは「代官札所」、幕府からのは「高札所」とされます。今でいう、中央で作成する「法律」と地方が作る「条例」みたいなものの掲示板でしょうか? 絵図でも札所が建てられた場所がわかります。
現在の普門寺は当時は如水寺と記されます。明治の廃仏毀釈で統廃合されます。普門寺は大寺でした。安下庄高校のあった甲野山(こうのやま)は(古城山)と記され、伝承によると、吾妻鑑に出る平知盛の大島城とも、伊豫河野家の出城で河野山(こうのやま)とも言われます。
友澤四郎左衛門が開作した時代はいつ頃? 「地下上申」によると、【地下上申】五石、友澤四郎左衛門殿(大水無瀬) 寛保三年(1743)友澤領は浮島三十七石五斗二升 安下庄六石七斗二升計四十四石二斗四升 絵図安下庄森・三の松・友澤四郎左衛門開作 とされます。
屋代源三