okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

ルーツ研究

masato_katsuyama 

勝山 真人

京都市


沖家室島はルーツ

友澤姓の由来は

勝山 真人 2019年07月01日 投稿

 友澤開基・惣右衛門徳昭は二代石﨑勘左衛門宗政の長男ですが、毛利家に仕える際に友澤に改姓しました。石﨑では不都合だったのか、あるいは友澤と名乗る方が好都合だったのか、どちらかが理由だと思われます。女系の先祖に友澤姓の人物がいた可能性は否定できません。「青木氏系略(藩医青木本・末家系図)」の二代宗悦の項に、「友沢ノ姓ハ母方の名字 豫州ノ内イマイヨト云所ニ友沢ノ城トテ旧跡アリ」との記載がありますが、これが根拠のある話なのかどうかは不明です。ただこれが事実だとすれば、二代石﨑勘左衛門宗政の妻が友澤家出身だったことになります。

 

 私が調べることができた文献上の最も古い友澤姓の人物は、「長宗我部地検帳 高岡郡 上の一」に記載の「友沢左近進(さこんのじょう)」です。天正17年(1589年)の地検帳に、出間村と戸波村に土地を持っていたことが記載されています。どちらも現在の高知県土佐市の中心部から南西にかけての地域に相当し、伊予河野氏の支配地だった愛媛県とは接していません。長宗我部氏が伊予河野氏との争いに勝ち四国全土を統一したのは天正12年(1584年)ですので、友沢左近進が伊予河野氏の家臣だったのか、元々長宗我部氏の家臣だったのかは、この資料だけでは判別できません。


 次に伊予市誌(1986年)には、伊予市上三谷の三谷神社の前身である若皇神社(若一社)が加藤左馬助嘉明によって再建されるに当たり、慶応7年(1602年)に釿初めをし、奉行の「友沢兵衛尉」を三谷氏子として、という記述があります。その他伊予市誌には、寛文11年(1671年)の伊予大洲藩の替地代官所手代・友沢彦右衛門、天明6年(1786年)の浮穴郡砥部庄川井村・友沢常右衛門という名前が見受けられます。現在も伊予郡砥部町には友澤姓が多いようです。浮穴郡は石﨑氏のルーツとも考えられる地です。


 このように現在の伊予市と伊予郡砥部町に友澤姓の人物がいたという事実は、先の「豫州ノ内イマイヨト云所ニ友沢ノ城トテ旧跡アリ」との記載とも一致し、非常に興味深いです。この辺りの地域が友澤姓の発祥地なのかもしれません。


 一方「福岡県史 近世史料編 細川小倉藩(三)」には、寛永7年(1630年)8月の日帳(細川忠利治世の奉行所の記録)に、「友沢十左衛門」という名前が見出せます。また伊予松山藩にも友沢姓の藩士がいたようです。

    

 このように、友澤(友沢)姓は愛媛県を中心とした地域で16世紀末から17世紀初頭にかけて既に広まっていたものと考えられます。

   

かむろ会概要  お問い合わせ