
HiloTimesが移民百年を記念して発行した“ハワイ島日本人移民史”(1971年発行)に、1941年頃のハワイ全島の日本人の出身県、職業、住所などの名簿が掲載されており、その“職業欄の船名”を手掛かりに、親族の西村鹿蔵などのHilo水産株式会社に所属する53の船長・船名を“日布時事布哇年鑑(1930/昭5)”で確認できた。
1 53船長の出身県について、山口県が24船(うち、沖家室 15船=別表の〇印)、広島県が13船、その他の県が16船である。(詳細は別表)
□ 沖家室出身の船長と船名
古谷安太郎(恵比寿小新造丸) | 古谷庄太郎(金比羅丸) | 畑 浪平(明神丸) |
林 太次郎(天龍丸) | 丸尾助太郎(金比羅丸) | 港石岩松(八幡丸) |
西村七蔵(明神丸) | 西村鹿蔵(恵比寿丸)* | 西村鹿蔵(観音丸)* |
叶井宇三郎(大島丸) | 柳原初蔵(恵比寿丸) | 柳原久五郎(恵比寿丸) |
西村宇吉(八幡丸) | 西村萬一(吉?)(八幡丸) | 柳原平吉(恵比寿丸) |
*住所から西村鹿蔵が恵比寿丸と観音丸の2船を所有していたことを確認。
(1) 沖家室を中心に山口県が46%、広島県を含めると70%と大半を占めており、1907年に山口県沖家室島と広島県仁保島の漁師が中心となって水産株式会社を設立した歴史が23年後も窺える。
(2) 1929年の売上額は156千ドルとある。(現在の円換算で数億円?)
(3) 53船に従事する漁師は250~300人ほどである。(他の年度資料から推計、正確な数字は不明)
(4) 船名の大半は信仰する神や神社であり、西村鹿蔵やハワイ人のナベアヒなどの6船が“恵比寿丸”である。特に、沖家室出身者の15船のうち、5船が恵比寿丸と目立っている。これはハワイでの漁の安全と大漁を“エビス様”に願っていたと思われるし、その思いは沖家室の“蛭子神社”にあったと思われる。(確証はないが、年鑑は誤字も多いので、“蛭子丸”だったかもしれない?)
(5) この調査では、悲しい記事も発見した。
*沖家室出身で、西村鹿蔵より5年後に移民した八木庄作がエワ沖で行方不明(1922)。
*水産会社顧問の前坂角太郎(山口県出身)の息子・石太郎がフレンチフリゲート沖で溺死(1922)。
*西村鹿蔵も1948年、クムカヒ湾で遭難し、無事だったが、ハワイの海は厳しい環境である。
2 1930年頃の水産株式会社を取り巻く状況
(1) 日本の海の民がハワイの海へ進出して20年ほどで、ハワイ漁業の主役となり、1930年代は最盛期であったが、世界恐慌、漁師の高齢化、後継者不足などにより、その栄光が陰り始めた時期でもある。
(2) このような背景のなか、会社改革を本格的に進めるために、これまで“会計”などで会社経営に携わってきた北川磯次郎が1931年1月に4代目の社長に就任した。以後、戦争で中断するまで、副社長の西村鹿蔵、支配人兼会計の松野亀蔵、監査の林久一、西村廣吉など沖家室島人脈が主体となって北川社長を支える体制となった。(監査の安川久五郎、書記の吉山一雄は広島県出身)
(3) 戦前はホノルルを凌ぐ賑わいをみせていたヒロの漁業は、戦争による中断、古参の漁師の大半の引退、さらに1946年の津波被害が加わり、戦後の再開は困難を極めたが、徐々に復興しつつある1950年4月、松野亀蔵(72歳)が5代目社長に就任し、副社長以下の役員には歴代役員の子息等の2世が就任した(北川 傳、松野良雄など)。
* SUISANの歴代社長のうち、2代目の江川平太郎は広島県仁保島出身、他の4人は沖家室島出身である。(写真は1957年のSUISAN創立50周年の記事から)なお、3代目の西村鹿蔵のあと、江川平太郎が再度、社長に就任している(1911~1931)。
* 5代目の松野亀蔵の夫人(友代)は西村鹿蔵・(八木)トワの長女である。(6代目の松野良雄は西村鹿蔵の孫、現社長のSteve Uedaは鹿蔵の玄孫である。)