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ルーツ研究

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小田 哲生

大分市 上八幡


沖家室島はルーツ

■ ホノルルの水産業の発展に貢献した山口県の人々

小田哲生 投稿日2026/03/14

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 “1915年5月30日付けThe Daily Nippu Jiji” の“布哇漁業会社所属帆船の西村鹿蔵”は、調査の当初、私の調査対象の鹿蔵と思っていたが、その後の調査で、沖家室出身の同姓同名の別人であることが判明した。掲載紙がKaka’ako地方版であること、情報誌“かむろ”などから、石崎トヨと結婚、息子が富雄で、のち、ハワイ島ヒロに移住した鹿蔵でした。私の調査対象の鹿蔵は八木トワと結婚、息子は秀一、勇一で、ヒロ水産会社の社長、副社長を務め、長女・トモヨの夫が松野亀蔵でした。



1 ホノルルの漁業会社の変遷

(1)布哇漁業会社はホノルルの日本人コミュニティのリーダー(日布時事社長の相賀安太郎、和歌山県出身の医師・三田村敏行、広島県仁保島の漁師出身の倉本辰蔵など日本、アメリカ、中国の27人ほどが出資)が中心となり1908年に設立された会社で、沖家室や周防大島周辺の山口県や、広島県、和歌山県などの漁師が所属した。

      *ハワイ島ヒロでは、前年(1907)に沖家室島や広島県仁保島の

       漁師たちが“Suisan Kabushiki Kaisha/ヒロ水産会社”を設立した。


(2)その後、日本人支配層の経営に異を唱える者たちが、太平洋漁業会社(広島県仁保島出身の旅館主・山城松太郎等が設立)、ホノルル漁業会社(和歌山県出身の貴多鶴松等が設立)を設立して独立した。


(3)布哇漁業会社は再編しながら、1918年頃に解散状態となり、1922年設立の布哇水産会社に引き継がれ、大谷松次郎が戦後(1952年)に設立したユナイテッド漁業へとつながり、ハワイ水産業の発展に貢献した。


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2 布哇漁業会社の所属船(1915年5月30日付け、The Daily Nippu Jiji)

(1)この表に掲載されている船名、船長は、会社設立7年後のものである。


(2)広島県、和歌山県の出身者の大半が新会社に移ったので、36人の船長のうち、沖家室、安下庄、上関、大畠など周防大島周辺出身の船長が大半を占めている。
    なお、設立時の漁業従事者は魚仲買人などを加えると378人と記事にある。


(3)大半が動力船であるが、沖家室の7船長が“帆船”、和歌山の2船長が“鰹船”と、出身地の漁法の違いが伺える。

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(4)沖家室の10船長のうち、北川政五郎(峠区)が沖家室漁師の代表として漁業会社の理事に就任している。
  船長以外では林 幸蔵(南区)が小船鯵釣り係を担当し、監査役に就任、林 亀吉(峠区)が鮮魚運搬を担当している。さらに、三国 一(中区)が業務は不明だが勤務していた。

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三国 一は第1回官約移民(1885年) に沖家室から参加した唯一の人で、マウイ島で3年間就労して帰国したが、1897年に森岡移民会社の斡旋(私的移民)で再渡航し、オアフ島エワ耕地などの就労を経て、漁業会社に就職した。なお、彼は長州藩奇兵隊816人の一人で、幕末に活躍したと記録にある(山口県史、史料編、幕末維新5,P.1068)。大半は不明であるが、周防大島出身の23人が掲載されている。
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3 1922年設立の布哇水産会社


(1)布哇漁業会社から広島県や和歌山県の漁師や魚仲買人などの多くが去り、経営不振となったことにより、当社の理事(支配人)になっていた上田新吉が、周防大島周辺の山口県人に呼びかけて買収し、新たに布哇水産会社を設立した。設立にかかわった山口県出身の主な役員は次のとおりである。

  ①山根宇一(光市束荷、社長、山根商店主、オアフ島カリヒの不動産王)

  ②鍵本次助(安下庄、副社長)

  ③大谷松治郎(沖家室、監査役、のち副社長)

  ④吉村国一(久賀、監査役、モロカイ沖で遭難)

  ⑤上田新吉(上関、理事兼支配人、のち社長)

  ⑥岡田卯助(上関、理事)

  ⑦島本與太郎(安下庄、理事)

  ⑧柏原清作(上関、理事、鰹船をディーゼルエンジンに改め、近代化に貢献)


 

(2)当社は戦争により倒産したが、戦後、大谷松治郎が新会社“United Fishing Agency Ltd.”として再興し、現在、アメリカで “ セリ” のある唯一の魚市場として存続している。


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